暑いんだか寒いんだかよくわからん。
今年は梅雨が遅いからだろうか。
緒方は雨の上がった空を見上げた。
雨は止んだが空は雲が厚く
夕陽の消えた空は早や都会のネオンを映して
玄妙な濃灰色で摩天楼にのしかかる。
煙草に手をやろうとして立ち止まった緒方は
手にした傘をどうしたものかと
考えあぐねた。
派手な苺柄の飛ぶビニール傘は
棋院の売店の小母様が貸して
いや「くれた」ものだ。
傘を持たずに出歩くが常の緒方が
乗ってきた愛車は不運にも
エンジントラブルで動かなくなった。
出せなくなった車の為に修理引取りの手配を
出入りの店に頼んだ。
その電話を置いた緒方の手に
当番を終わる小母さんが
「ちょっと柄がついてますけど…
コレなら返さなくていいですから。
お家に着いたら捨てて下さいネ」
と押し付けたのだった。
礼を言う間もなく立ち去るオバサマ
その背を見送って傘を開き、
一瞬たじろいだ先生だが
「お疲れ様ですー!」
の明るい声に挨拶されて
思わずシャキッと持ち直し
手を振ったのは条件反射か。
周囲の見知らぬ人々が
白スーツの紳士が真っ赤な苺の傘を
堂々と差して歩く姿を
どう思ったかわからないが
好意を無下にするのと恥を忍ぶのと
どちらを選ぶかという問題で
後者を選んだ緒方先生であった。
雨が止んで傘を閉じたが
畳んでもやはり妙に派手な傘。
用が済めば廃棄せよと言われたが
いきなり路傍の塵芥箱へやるのもためらわれた。
一服して空になった煙草の箱も捨てた時
ビルの隙間に見覚えのある会館が目に入った。
こんな近くだったのか。
そこで今働いているだろう人物の顔を
思い浮かべてちょっと微笑んだのは
一体何を思いついたやら。
スタスタと目的地へ進む緒方の
鼻歌の曲名はちょっとよくわからない。
「……だいたいこういうところですか。
何か他に質問のある方……
どうかしましたか?」
よく響く声で明るく話す講師は
教室の後ろでざわつく受講者たちへ目を向けた。
「……げっ」
小教室の一番後ろ、
戸口の側に仁王立ちしているのは
燦然たる(?)タイトルホルダー緒方プロ。
「予約の無い見学はお断りしてますが」
つかつかと歩み寄ってニッコリそう言う
本日の人気講師白川先生
そのこめかみに青筋がピクピクと動いている。
「そうでしたか」
負けずにニッコリアイドル笑いを浮かべ
戸口へ戻ろうとした緒方先生を
生徒が引きとめた。
「あ、あの……」
「どうしましたか」
「緒方先生、ですよね…?」
「ハイ」
ここぞとばかりに悩殺的微笑で振り返る緒方。
「フッファンなんですッ
先日の勝ちは素晴らしかったです!!」
「サインお願いします!」
「キャー、あたしも、あたしもーッ」
「押さないでー!」
いやはや大変な騒ぎである。
本日受講の大半が女性だからかもしれないが
押しかけた半数は男性なのは
緒方プロの魅力のなせる技と言えようか。
「みなさん! お静かに!!」
白川先生の一喝で雪崩が静止する。
「しょうがありませんね。
本日の私のお講義はこれでおしまいにしましょう。
緒方先生、すみませんがちょっとお願いします」
白川先生が演台へ緒方を導くと、
あたかもモーセの渡海行のごとく人の波が割れた。
「はい、みなさん席に着いて。
ただいまから臨時講師
緒方先生にお話を伺いましょう」
キャーとあがった歓声にはもちろん低い声も混じる。
「いつも鮮やかな勝ち方が印象的な緒方先生
ですがたまに負けた時も非常に面白いですね。
先日の半目負けをされた時の百手目ですが……」
一瞬こわばった緒方が白川を見ると
薄い青筋がまだ消えてない。
素早く大盤へ棋譜を並べる講師。
からかうつもりがいつの間にか
まな板の上の鯉のような緒方。
「この時こちらを攻められたのが非常に面白い。
ボクなどどうしても
こっちを手当てしたくなるんですが」
にっこりと笑みを向けて
「この時のお気持ちというか読みを
一度伺ってみたいと思ってたんです。
今日はからずも機会を得ましたので、伺って
よろしいでしょうか、緒方先生?」
生徒に見える横顔は素敵な笑顔だが
緒方から見える瞳はまったく笑っていない。
「はははははははは……相変わらず厳しい所を
突いてきますね白川先生は」
緒方の背につぅーっと冷たいものが流れた。
その棋譜はその夜中
白川からコテンパンに追求されたのも
記憶に鮮やかな緒方。
いまさら何をどう語れというのか。
「確か、新聞の解説ではその三手後が敗着とか
言われてましたけど、ね……」
「ええ、あの欄をご担当された●●先生は
そう読まれたようですね。でも、
緒方先生ご自身はどうお考えでしょう」
「あ、まぁ、その、この時はですね……」
どうしようもなく手がヌルヌルしてきた。
膝に置いた手の跡が生地に残りそうだ。
「なるほど。さすがですね」
白川のフォローは聞きようによっては
褒め言葉のようだが緒方は
閻魔様の前で針の筵に座っている気分であった。
「先生、ありがとうございましたー!」
満足気な生徒諸君の挨拶に笑顔を返しながら、
緒方は何時間にも感じられた数分が
終わった事を感謝した。
「お忙しい中ありがとうございます」
慇懃にお辞儀する白川に
「いや私も楽しかったですよ」
と笑ってみた。
「本当に?」
「あぁ」
「では来週もいらっしゃって下さい。
今夜と同じ時間がいいですね」
にっこりと言う白川に蒼白な顔で緒方は
「じょ、冗談」
「だめですか?」
「わかってるだろう!」
いくら何でも来週の今日は大勝負の前夜である。
できる無理とできないムリがある、と
緒方は思った。
「残念です」
「……本気で言ってるのか、まさか?」
「じゃあ来週は我慢しましょう」
「来週だけじゃなく今後ずっと無理だ!」
「そうですか」
「……まだ帰らんのか」
「帰りますよ」
なんだか拗ねたような顔で
ちょっと赤くなってる緒方に
白川がやっと微笑んだ。
「お迎えご苦労様」
「べ、別に……ッ」
真っ赤になった緒方にフッと笑った白川。
もう怒ってないのだろうか……?
「その傘差して行くんですか」
「あ、いや……これは」
「いいですよ」
「だ、ダメだッ、これは……!」
「わたしも今日は持ってませんから
入れて下さいますか?」
降り始めた空を見て言う白川。
「………ダ……」
「駅までお願いします」
大の大人二人がイチゴ柄で相合傘なんて
考えただけで羞恥の極みだ。
しかし……。
ニコッと笑う白川の顔がまぶしい。
「向うに着くまでに
止んでるといいですねぇ」
トボトボと歩む「棋界随一のスタイリッシュ男」
緒方氏の前途には
きっと幸が満ち溢れていることだろう。
ご当人の気分とは関わりなく。
………Have a Happy Birthday
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