さくさくさくと雪を踏む音ばかりして、 人気の無い住宅街の小道は寒々と鳥の羽音ひとつ無く、 冷たい風が頬をなぶる。 「何があったの」 答えを期待するより寂しさを紛らわせたくて 白川はそう言った。 前を行く緒方の答えなんかないに決まってる。 それに、聞いてみなくたって理由は何となくわかる ような気もするし。 ただ溜め息でも小馬鹿にしたようなせせら笑いでもいいから何か、 足音以外の反応が欲しかった。 ちょっと雪をひと蹴りするだけでもいい。 ひとあし早く会を抜けたはずの緒方の後ろ姿。 建物を出た時向こうの角に見つけて、 その時は白川もドキドキしながら見間違いかな、と思った。 なぜってそれが見えたのはあまりにも一瞬、 周囲の誰も気付かなかったのか、 何がいた、と聞かれたくらい。 なのに仲間への挨拶もそこそこ、 白川は駆け足でその後を追った。 取り残された奴等 見逃せない番組があるなどという白川の口実を 不審に思わなかったろうか…? そんな自分がおかしくて 緒方の肩を捕らえた時白川は笑っていた。 けど、白川の手をうるさそうに肩をゆすって振り落とすと 緒方は目を雪道の彼方にすえたまま無言で歩き続ける。 まぁご機嫌悪いは今日に始まったことじゃない。 むしろはなはだ機嫌の良い時もむっつり 押し黙っている。 今日の彼は勝った。 そのはずだ。 白川も同時に別席で対局していたので見ることはできなかったが、 見た人からは鮮やかな勝利だと聞いた。 なのに何が気に触ったのか。 緒方の黙りこみ様がゴキゲンが過ぎてというより 何だか本当にぐずぐずした感じに見えてきて、 白川はだんだん不安になる。 それでも、いつもより小幅な緒方の歩調を 追い越しもせず遅れもせず、 白川も黙ったままついて歩く。 雪の道は静か まるで世界中に二人しかいないみたい。 寒いのに 緒方は手をポケットにも入れず ブンブン振って歩いてる。 その手、もうどんなに冷たいだろう。 緒方の手の甲に白川の指先が触れた。 と、その手はサッと逃げるように前へ飛ぶ。 悲しくなる。 そのままブン殴ってやろうかと思った。 けど、止す。 やれば負ける気はしないけど、やる理由がない。 ただの八つ当たりだ。 それも 構ってもらえないから、という ひどく子どもじみた。 いいトシしてそんな恥かしいこと できやしない。 白川も何だかうつむき加減で とぼとぼとついていく。 冬の曇り空、うすぼんやりして 何時なんだか、はっきりしない。 もう少しで日暮れるはずだけど、 どこまでも灰色で、 泥塗れの雪道も薄汚い。 何のためについて歩いてるのか、 薄汚い欲望からではないのかと 暗に難じられたようで 鬱々と沈みだす心。 違うとは言い切れない。 さかりのついた犬みたいに 見つけたとたん走り出した自分が その時、何に駆られていたか。 今だって冷たく汚れた道に押し倒したくて しかたないくせに…。 もっと早く出れば良かったと思う。 終局してすぐ外に出ていれば、背中じゃなくて、 まだ玄関にいた緒方をつかまえられたかもしれない。 そうすればもっとはじめから今日の棋譜だとか 来週に控えた勝負だとかあれこれ 語らいながら帰ることもできたんじゃないか…。 盤から石を片付けながら見回したら会場にはもう姿がなかった。 どれくらい早く緒方の勝負が終わったか知りたくて、つい 展開を見たというやつがくどくど喋るのなんか聞いちゃったのが間違いだ。 そんなことしなくても本人をつかまえれば聞けたのに。 さっさとつかまえていれば…。 「何もない」 緒方の答えにびっくりして白川は前を向く。 「何もってことはないだろ…何か、ボク…」 「何もないと言ったのが聞こえなかったか」 「聞いたけど…」 「だったら同じことを聞くな、馬鹿…ッ」 弾むような鼓動、胸の奥から泡みたいに沸き出してきて、足に流れて地を蹴る。 何歩も行かずにすぐ仏頂面に追いついた。 肩が並ぶ。 「あのさ、今日の勝負…」 「どうだった」 「凄かったんだってね…ボクは見れなかったけど…」 「バカッ、オレが勝つのは当たり前だ! オマエはど…ッ」 「か、勝ったよ…」 「随分時間をかけてたじゃないか…そんなにオモシロかったか」 「別に」 「つまらん碁ならさっさと切り上げろ! 時間のムダだ」 「そう簡単にできれば苦労しないよ」 「キサマのは苦労じゃない、遊びだ… くっだらない碁をいつまでもダラダラタラタラ…」 「…見てたの?」 少し間があって 「見なくたって、ワカる…!」 ぷっと吹き出した白川に緒方がつっかかる。 「何がおかしいッ?」 「ん…何だろ、うん。わかんないけど…なんだかね」 ケラケラ笑いだして止まらない。 「ワケもわからずよくもそれだけ笑える」 あきれたように鼻を鳴らす。 と、プン、と鼻先に提灯。 笑いは一層激しい。 袖口で拭おうとした緒方の手を止めて白川は 涙をにじませた目でまだ笑いが止まらない。 「離せッ」 振り払おうとする緒方の手に ポケットから出した白いハンカチを掴ませる。 眉の間に縦皺を寄せた緒方は それをバサっと広げると ブビーッ と高い音をたて勢いよく鼻をかむ。 さんざん笑われた腹いせのつもりだろう。 しかし、汚されて返ったハンカチを きれいに畳み直してポケットに収めている白川が 果たしてどう思ってるか 顔を見る限りではさっぱりわからない。 まだ笑顔のままだ。 ムカムカするからポケットを上から握り潰してやろうかと思う緒方。 そうして汚れが外に滲みたらいい気味だ。 ぐだぐだと悪い考えに耽っていると スン、と鼻で息をしたとたんに ポタッと赤い血が雪に落ちた。 白川が青くなって 真っ白なハンカチをもう一枚取り出して 緒方の顔に押し付ける。 「びらんっ」 赤いシャボンを飛ばして抵抗する緒方に 素早くティッシュを縒って差し出す。 「すぐ止まる!」 「黙って」 一本目、二本目…とダボダボになるたび差替えて 四本目でどうやら落ち着いた。 「……………………」 血塗れの手は雪で拭った。 白川が非難の目で新しい白ハンカチを差し出す。 (…何枚持ってるんだコイツは?) いい加減に使って付き返そうとすると 「もっとちゃんと拭いて」 と睨まれる。 バンバンバンと叩くように使って返す。 するとムクれた顔で片手ずつ捕らえられ、 爪の中まで丁寧に拭かれてしまう。 鼻がムズムズする。 鼻血は止まってきたが 今度は鼻水でグズグズになってきた。 詰め物をポイッと道に投げ捨てる 緒方に新しい詰め物を渡しながら 落ちたのを拾う白川。 「バカ! そんなのうっちゃっとけ」 「そんな訳にいかないだろ」 「止めないか、みっともない!」 「じゃぁ、捨てないでよ…?」 と差し出す手へ ぐっちゃぐちゃのまま、ポンと落とす。 でも白川は平気な顔して ポケットから出したビニール袋へひょいひょいっと入れた。 (なんだ、汚れハンカチもその中にある。まったく用意のいい。) で、ビニール袋をまた小さくして懐に片付けてしまうと 白川は緒方の手を握った。 「何すんだ」 「寒いから」 「寒くないッ」 「寒いだろ」 「知るか!」 「はい、手袋」 「何だコレは…片手だけ寄越して」 「持ってないんだろ。ボクも今日は一組しか無いから」 「貸すんならもう片方も寄越せ! 中途半端な」 「こっちはこうしたら暖かいだろ」 握った手をポケットに入れる白川。 「止めろー!」 「道端で大声出さないでよ」 「離さんか、バカッ」 「騒がないで早く帰ろ……あ、炬燵で一杯やりながらしようよ」 「何をだッ…は、離せッ、離せったら、バカやろうー!」 真っ赤になって怒る緒方を放すつもりはもちろん白川さらさらない。 とっとっと……ともつれるように走っていると 罵声も息が切れて まるで笑ってるみたいに聞こえる。 蹴り上げる泥雪が呼んだのか、 チラチラと 雪が舞いはじめた。 ……… 了 |