[リロード]

柊      

 催しが終われば時に主催の招きで
打ち上げと称する呑み会もよくある事。
 だが、白川は原則としてご遠慮して
帰ることにしている。
 原則を破って応じたのはちょうどその日
リーグを一つ勝ち進んだ緒方が来ると聞いたからだ。
 ただし緒方が来ると聞いて決めたわけではない。
 渋る白川を説き伏せたのは主催側の若い男だった。
 詳細は語らないがその会で以前ある年配の棋士を招き
何やら痛い目に遭ったらしい。
 名を聞くまでもなく白川にはおよその察しがついた。
 しかし緒方ならそういう気遣いは一切無用だ
と白川は強く請け合ったが、そう言う本人は退散、
では不安一掃にならず。
 面識ある先生こそ頼りの糸と拝むように乞われて同道。

 面識どころでない間柄の顔を見せて
彼の機嫌が損なわれるかもしれないが、
勝った顔を早く見たいのも偽らざる本心で。
 暗雲生ざば落雷は我のみにと念じて宴に臨む。

 最初の予定に無かった人間だからと下座に着くと、
なぜそんな所に…
と腕を掴まれた。
が、正客の座は勘弁してもらい、やや脇に仮座。
 飲み物を勧められ躊躇していると、やがて
ガヤガヤと一団が到着した。

 引率どうしの挨拶もそこそこに主賓を座らせる。
 すると、緒方は斜めに居た白川にようやく気付いた風情で、
慇懃に頭を下げた。
 微笑みながら会釈を返す白川に、しかしそれ以上何も
語ろうとしない。

「あの…すみません」
「はい?」
 宴の半ば、白川を連れて来た男は、小さくなって頭を下げた。
「ご無理を言いまして…もしかして、緒方先生と、その…」
 相当仲が悪い…と思われたようだ。
「あぁ…いや、謝らないといけないのはボクの方ですよ」
と笑う白川に、男はますます小さくなる。
「そんな…先生は帰るつもりでらしたのに、オレが無理に…」
「あぁ、いえいえ。
 緒方先生も本来は気さくに喋ってくれる方なんですよ。
 でも今日のような大勝負後じゃ…
 そう気楽に喋ってなんかもらえないとわかってて、
 ツイのこのこと…その上、御馳走になって。
 ボクの方はお礼こそ言え、
 謝られることなんか何もありません」
「…す、すみません」
「幹事さんこそ今の内にしっかり食べないと」
「うぅ…ありがとうございます、白川先生」
「ところですみませんが、ボクはこの辺で」
「え、先生、もう?」
「はい、すみません。
 用意が悪くって…これから明日の準備なんです。
 どうか皆さんによろしく…」


 外に出ると夜道は寒さ厳しく、
路端の街灯も白く凍りつきそうに見えた。

 強くない酒が入って体温が高いのだろう、
そんな冷気も心地良いくらいだ。
 帰り道の気安さか、疲れているが気分はいい。
 今日一日の仕事は大過なく終わり。
 無事是吉日。

  何より…
  機嫌の良い顔を見たから。

 白川は宴席での緒方を思い出して微笑んだ。

 知らぬ人は気難しい顔に何が気に障ったかと
心配したろうが、あれはただリーグで頭一つ出た程度に
上機嫌では後から色々喧しいからで…
 斜向かいから眺めていた白川にはご機嫌な笑みを
一所懸命に噛み殺す緒方の渋面がおかしかった。

 速報してもらった今日の棋譜を頭で見返す。

  緒方の満足そうな顔も無理ないな

と白川は思った。

 中盤、蟻の這い出る隙も無い陣を思いもつかぬ
方から崩した手も素晴らしかったが、
それでも揺るがなかった対手の圧勢をコツコツと
取り崩して半目差。
 終盤は実に細かい。
 しかし細かかろうが豪快だろうが
勝たねば意味が無い。

 緒方のこういうスタイルにこだわらない勝ち方を
嫌う者もいるが、白川はこの勝ちへの素直な執念が
いいと思う。

 戦略も戦術も勝つ為でそれを忘れて拘るのは
本末転倒。
 しかし盤の前でただ勝つために打つことが
…それまで練り尽くした策にも、
それまでの自分にも拘らず
…それがどんなに難しいか。

 緒方とて今でこそ、これという型の無い棋士との
評が定まっているが最初からそうでは無かった。
 意識して活用すれば型とも呼べようが無自覚なら癖、
緒方もプロ入りの頃はよく老練の棋士に利用されたと
悔しがった。
 今思えば少々きつく眼を掛けられていたという事
だろう…彼の師だけが彼の才を愛したのではない。
 諸先達に可愛がられて全方位型の最強棋士が今在る。

 今日の勝負は派手な攻めにすんなり落ちる対手では
なかった。
 地取りの上手で、手堅い布陣を敷いても
うっかり攻防に気を取られている隙に地が削られている。

 そういう打ち手に対し、言わば向こうの得意技で
競り勝った訳で、見た目の地味に反し内容は派手なのだ。

 …これで得意になるなという方が無理…。

 白川も棋譜を見た時は息を呑んだ。
どんなに傍でそれを見たかったことか。

 宴席に顔を出したのもその興奮の余波と言えた。

 だが対局直後の緒方が、素人ばかりの席に
本当に顔を出すとは。
 会の世話役か何かに古い付き合いでも
いたのだろうか。
 それとも、検討など会場錚々たる顔ぶれ揃う中で十分、
後は気を遣わない所で祝杯に酔いたいとでも?…。

 実を言うと、白川も緒方の顔を見た瞬間から、
その肩を叩いて外に連れ出し、今日の一局を
問い詰めてみたくて仕方がなかった。
 しかし、本当にそんな事をすれば
宴に招いた側に非礼なばかりでなく、
緒方にだって非道い話だ。
 きっと、夜通し付き合わせても
終わらないだろう。
 今日のような一局を終えて
疲れていないはずないのに…。

  今夜はゆっくり寝てほしい。

 そう願って、挨拶もせず
一人退出したのだ。


 風は無いが、さすがに冷えてきた。
 くしゃみして白川は襟巻きを取り出した。

  明日起きたら電話をしてみよう。

 今夜は…何だか体が温かい。
 布団に入ればよく眠れそうだ。

 そう思ったら、つい
その時腕に抱いていたい温もり
を思い浮かべて…

  しまっ、酔いが回った。

 欲を紛らわすように白川は苦笑して
家路の足を速めた。
 月と冬の星座が夜空にくっきり輝いて、
見上げる白川の息が白く昇って消えた。

 ふと折れるともう寂しい通り。
 夜も更けると車も絶える。
 少し離れた大通りを過ぎるトラックの音が
遠く響いた。


 ものぐさせずに一番近い駅まで
乗ってればよかった…と少し後悔しはじめた時。

 突然目を開けていられない眩しさ。

「どこをほっつき歩いてんだ、酔っぱらい?」

 ヘッドライトでいきなり人の正面を照らし
不機嫌にそう言う声は…

「緒方…」

 なぜここに、という問いは開くドアの音にかき消され。
 白川が乗車を一瞬ためらうと緒方は口許の煙草を噛み締め、
乗り込む姿に安堵したように火を消す。
 シートベルト装着の音と同時にエンジンが唸った。

 醒めかけたはずの酒が再びまわりだした感じがして、
前を向いたまま白川は口を開く。
「あの、おめ…」
「言うな!」
 語気荒く白川の言葉を遮ったのを詫びるように呟く。
「…まだ」
 リーグ優勝が決まったわけでもなく、
ただ勝数の積み上げがわずかに一つ他より優ったに過ぎず、
祝辞を受けるには値しない。
そう言いたいのだろう。

 緩やかに滑る車は、まるで目的地がわからないように
時折曲がる。
「…どこへ?」
問う白川に緒方が問い返した。
「どこがいい」
「え…」
「とりあえず飲み直すか」
「えぇっ…」
 もう寝るべき時間では、と見返す白川に
前を見据えたまま緒方は低い声で吐き出した。
「他人の懐じゃ、食った気がしないだろ」
 飲み直しより遅過ぎる晩飯がご希望か…。
「…作ろうか?」
「あるのか、何か」
「うん…湯葉巻と角煮あと大根汁…五分もあればもう少し…」
「作らんでいい。どうせオマエ食わんだろ」
「どうして」
「まだ食うのか? 遠慮無しにガツカツ食ってた癖に」
「そんなに食べてない」
「煮鮑と蟹足は不味くて残したんだろうが、
 他はすっかり平らげてたな」
「キミは気付かなかったかもしれないけど、
 一膳足りなくて幹事さんと分けたんだよ、ボクは」
「その分飲んだってワケか」
「そんなに飲んでないよ!
 一滴も飲めなかったからって…八つ当たり」
「車を置いて飲めるか!
 ひたすら酌ばっかしてる前でこれみよがしにガブガブ…」
「要するに飲みたいんだ…?」
「誰がそんな事言ったッ」
「怒鳴ると余計にお腹空くよ…?」
「るさい、バカ、黙れッ」
 この分では、樽を開けると空にするまで飲みかねない。
瓶の口を切らせて付き合うふり、一合半で寝かせよう…。
 地下駐車場来客用スペースに軋音が響き、
考え事に耽っていた白川はガクリと前につんのめった。
 その肩を緒方が左腕で抑えたが、
はずみで白川の眼鏡は跳ね落ちた。
 拾って手渡そうとした緒方の手を白川は捕え、引き寄せる。
「ぉぃ…ッ?」
「欲しいだけ食べるといい…酒も…」
 無理な姿勢のまま抱き寄せられた緒方は夜中の事とて
周囲に人影無くとも闇に響く声をひかえ、息で抗う。
「なッ…止せ、バカッ」
「ボクは…ほんの一口つまめたら、充分…ん」
「シラッ、バッ……んんーッ……っ…ふ…」
 申告通りなら素面のはずなのに、狭い車中で
もがく緒方の手は白川の襟を侵し喉を掴み髪を掻きむしり
抵抗とも誘惑ともつかない動きで深みにはまっていく…。
 白川は軽い酩酊を覚えながら背凭れを傾けた。

 求めていた答えはここにある…。
 盤に現れる模様が打ち手自身だと言うなら、
魅惑が人の形をしているのに勝てる道理もない。
 人は遅かれ早かれ屈するしか…。

「しらかわ…?」
 物憂い目で見上げる緒方に唇の先で
ごく軽い音をたてたのを最後に抱き起こす。
「上がろう…食べなきゃ」
「…なぜ」
「食べなきゃ死んじゃうだろ」
「食っても死ぬんじゃないか。
 オマエが食うために食わせるんだろ…」
「ボクは、もう…」
「…どうだか」
 外套でくるめば中の乱れは見えない。
 動きの鈍い緒方の四肢を操るように抱き進め、
小さな函を待つ。
 中に入ればこちらを向くだろう横顔、
見つめるとそっぽを向くから
白川は黙って肩に頭を乗せた。
 キリキリと鳴るエレベーター音が
寄り添うふたつの耳の隙を埋めていく…。

              ……… 了




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