沈丁花の大木が公園にあって、 前を通りかかるだけでその香に包まれる心地がする。 それがなんだかあの人のようで、 ふいに恥かしくなって足早に行き過ぎた。 別段誰が咎めるでもないのに。 伺い知る事もできない心の内を、 誰が何を見てどう咎めると言うのか。 誰も見てはいないし気付いてもいないだろう。 思いつきもしないかもしれない。 けれど、自分はあの人の腕の中にいた。その時。 ふんわりと包むように回された腕が、 けれど何よりも確かななにかを伝えてくるようで。 あの夜自分は久しぶりに…いや過去かつて記憶に無いほど 安らかで深い眠りについたのだった。 何も信じていないクセに。 何ひとつ信じられないくせに、ただその腕がそこにあるというだけで 全てを得たかというほどに満ち足りた心地すらして、 身の内から温かくなるようで。 ただただ驚くほどすなおに、あの人のいとしみに不器用に応え返し続け、 あの人はそれを笑顔で享けた。 だが私室とは言え、教会堂に隣接する館で、 会堂を預る牧師がそのような事をして咎められないのだろうか? してしまってから無性に心配になったのだけれど、 その人はただ、満ち足りた微笑みを返し、耳元で囁いた。 「心配ない」 「そうなのか…?」 「キミが言わないでいてくれたらね」 と悪戯っぽく微笑まれて精次は怒った。 「そういう事じゃないだろッ」 「後悔してる?」 「そんなこと言ってない…!」 「大丈夫」 と抱き締めて道夫は続けた。 「キミがいてくれたらボクは無敵だから」 そんな台詞聞くのも恥かしくて、精次はただ、シャツを握り締めた。 そうして今もまた、その温かい手に触れたくて道を急いでいる。 そんな自分を誰にもさとられたくなくて、公園に回り道して。 馬鹿らしい事とは思いながら。 そうして回り道に気がはやって、だんだん駈け足になってしまうのだから …何をやっているんだかわからない。 滑稽な…。 恥かしいのを隠しているつもりか目的地に到着した頃には気難しいような、 怒っているような顔になっている。 無論そんな顔であの人の前に現れるのもどうかとは思うのだが、 思うように顔をつくることができない。強張ったまま扉に近づく。 と、決まってその扉はこちらが手をかけるより早く開いて、 彼のやわらかな微笑みが現れるのだった。 それを見るだけでもうトロけそうな心地がするのだが、 そんな心を見透かされたくなくて、渋面でうつむく。 伸ばしていた手も引込めてしまう。 その手を優しく捕り、中に引き入れ 「よく、来たね…」 と言い、そぅっと抱き締める。一瞬、歓喜と羞恥で頬が染まる。 それに気付いているのか、気付かないふりをしているだけなのか、 濃い睫を伏せ軽くくちづけ、もう一度きゅっと抱き締める。 と、思い切るように腕を解く。 「手伝ってくれる?」 そう言われ、こまごました物を運んだりあれこれ雑用を手伝っていると、 そのうち他の信者も現れて恒例行事が始まる。 彼は皆の為に働かなくてはならない。 正直言えば別段楽しいとは思えないことで、むしろ不愉快なくらいだが、 どうしようもない。 ただ、何もしないで待っているのも苦痛だから、 紛わしにあれこれ手伝って過す。 催しが終り雑談の群れも立ち去ると、待ちかねたように、 不良牧師はこう言うのだった。 「疲れたね…お茶にしようか」 「まだ運び終ってない」 いじわるをしたいわけではないけど、 待ちかねてた自分の気持ちを表に出したくなくて、怒ったように反論する。 「後にしよう」 という牧師に背を向けて 「イヤだ」 抗弁に牧師は苦笑し、近づくと、荷に手をかけ顔を寄せて、囁く。 「一緒に運ぶよ…早く終らせよう」 そのやわらかい唇に近づきたい気持を口許をぎゅっと結んで、圧し隠す。 荷を運ぶ時に指先が触れているのが感じられて少し動悸がする。 手をずらしてみてもなぜか接点が無くならない。 顔を上げると笑いをかみ殺している。 からかわれてる…! と思ってにらみつけるがさらに微笑むばかり。 うかうかしてるとやけに顔が近づいている。 慌てて箱を取り落しそうになってつまづきかける。 「危ない…!」 箱を小脇で支え、空いた手で腕を取りよろめく体を支えてくれる。 見かけによらず力強いのだこの人は…本当は手伝いなんか要らない くらいなのだ。 だとすれば… ここにいるのはただ構って欲しくて勝手にじゃれついているにすぎない… そう気付かされたようで、精次は支えてくれた手を邪険に振り払ってしまう。 「大丈夫?」 覗き込む心配顔に理不尽な怒りの目を向けて再び箱を持とうとすると、 牧師は箱を下し、精次の手を捕えると後手に固定して静かに咎めた。 「落着いて…慌てちゃ怪我をするよ」 顰め面の精次を軽く睨み額をコツンと突きあわせ、鼻先をすりあわせて 唇を重ねる。 「ん…」 ここで言いなりになってしまうのも悔しいのだけど、逃げられなくて、 逃がしたくなくて、やわらかな感触を追い、熱い内部を探り合うのに 夢中になってしまって… 微かな音をさせて離れた唇を捕えようとして、その唇に圧し返される。 「続きは部屋で…ね」 今度は一緒に持った瞬間からさっきと同じ物を持っていると思えない程 軽く感じる。 彼がほとんど持っているのだろうか? もしそうなら無用の手は無い方が軽いくらいではなかろうか… そんな不安が生まれるが、だからといって手放すのもかっこうがつかない。 最後までつきあう。 箱を納めると牧師はにっこり笑いこう言った。 「ありがとう…重くなかったかい?」 「いや」 「ほとんど持ってくれてたんじゃないのかな…?」 「いや。軽かった」 「そうだね。ありがとう」 軽いと思ったのは自分だけじゃなくて、 ちゃんと手助けになっていたと思うと、なんだか嬉しい。 ×××××××××××××××××××××× [ つづく ] |