大教会(カテドラル)の高い鐘楼でせわしなく鐘が揺り動いている…。 騒々しいまでに鳴り響く甲高いその音が 静かな午睡からその人を引戻してしまったようだ。 不機嫌そうな声で連れを呼ばわる。 呼ばれた人は飲みかけていた紅茶のカップを静かに置いて、 声のする方を見ている。 「何だい?」 逆光で栗毛に光っているけれど、 その巻き毛は豊かで艶やかな黒髪である。 大きめの二重の上に大きく弧を描いた眉。 プロ棋士、白川七段。 柔かい輪郭に微笑みの何とよく似合うことだろう。 天使が人の形をとればこうなのかもしれないと 誰かが評したような気もする…誰だっけ? 誰でもいい。 棋界唯一の十段、緒方精次センセイは、 対象的に明るい直毛風の頭を乱暴に振って きれいな生まれたままのお姿で シーツの海から起き出したのであった。 「今、何時だ…」 出かけなきゃ…とブツブツ呟いているのは まだ寝ぼけているのだろうか。 「どこへ?」 穏かに尋ねる顔は微笑みをたたえて 声音はあくまで優しいが… よく耳を澄ませば 笑いをこらえているようでもある。 「…おまえ用事あったろう今日…?」 「無くなったよ」 「…サボリ?」 「まさか」 しかめ面で寝台に起き直る裸身から目を逸らすように 濃い睫を伏せると、一口飲んだカップを受け皿に静かに戻す。 「君じゃあるまいし…?」 「ぬかせ」 鈍痛い頭をガシガシと掻き上げながら サイドテーブルの眼鏡を探した。 無い。 「はい」 ご愛用の眼鏡を手渡してくれる白く柔かい輪郭の手は まるで罪知らずに見える。 その手が先刻までどこで何をしていたかを想起したのか、 一瞬身を引いて、受取ろうとした手を ハタと膝に落とした。 鼻白んで低くうめいたのは どこか疼いたのだろうか。 「いらないの?」 あくまで愉快そうな口調が小憎たらしい。 そんな気分を知ってか知らずか、眼鏡をかけてやりながら 頬から顎の輪郭を確めるようにすぅっと撫ぜて囁いた。 「少し早いけどそろそろ支度してほしいな…」 耳元で囁かれるとくすぐったい。妙な気分になる。 睨むように見上げるとにっこり笑って続けた。 「ディナーの予約がとれたんだ。 こんな季節だからもう駄目かなと思ってたんだけど…」 降りてくるくちづけを避けようとするが 顎を極められて逃れる事はかなわず、緒方精次十段は唸った。 なぜこんな羽目になったんだ… 自問してみる。 そもそもは、となりのナントカ…という一口に言えば お子様向け漫画映画のビデオだ。 そいつが誠によく出来たストーリーで、緒方は不覚にも、 白川が手洗いに立った隙にボロボロ涙を流してしまったのだった。 きゃつが戻るまでにそれは止まり、 相変らずツマラナイ顔で眺めているふりをしていたのだが。 立ち戻った男はペタリと傍らに座ると すっと顔を寄せてきて匂いを嗅ぐ仕草をした。 「何だよ…」 不機嫌に問うてもひるむそぶりも無い。 ペロリと頬を舐めるとクスクス笑い出した。 「何がおかしい?!」 「純情なんだねぇ…やっぱり。君って…」 あとは途切れて爆笑になる。 「何だとぅ…ッ」 「猫バス、乗りに行こうか…?」 「…馬鹿か…ッ」 「知らないの?あるんだよ…ホントウに」 「何が…」 「今度連れてってあげるよ」 「いらん!」 心底可笑しそうに腹を抱えながら笑う白川を蹴ろうとして 空を切りながら緒方は怒鳴った。 「絶対行かんぞ!」 しかし心の底で ホントウにあるのなら乗ってみたい… と密かに思ったのは一生の秘密である。 その話の流れからすれば、いまいるべきはジ○リ王国のはずであった。 それがなぜ… こんな言葉も通じない異国にいるのだ…ッ? 「予約がとれなかったんだよ」 とすまなそうな顔で白川は言ったものだった。 絶対違う、と緒方は思っている。 コイツが手配ミスなど考えられない。 手違いがあったって魔法のような手口で (その手口の詳細など聞きたくもないが…) 目的を遂げてしまう男なのだ。 ビデオ鑑賞から何日後だったか。 「クリスマスの予定空いたんだってね」 「余計なお世話だ」 上機嫌な白川からの電話に不機嫌に答えた緒方であった。 長い付合いでその程度のご不興に動じない白川は 機嫌の良いまま続けた。 「じゃぁ丸三日フリーだね」 「だから何だ?!」 何の予定もなければ暇だろうと 世間は思うかもしれないが、 大手合でも控えていれば その対策も練らなくてはならないし、 そうでなくとも 自分の棋力強化のため研究は欠かせない。 タイトルホルダーなら 棋院経由の雑務はある程度避けることもできるので、 そうでない者に較べれば比較的余裕があるが、 そうは言っても 古くからの義理や何やで断りきれないこともある。 だから今回のように はからずも時間が空いたなら 全て棋譜研究にでも費やすのが理想と言えよう。 暇ができたから遊びに行くというのでは 今の地位を保持するのも危い。 シビアな世界なのだ。 「尖ってるなぁ…たまには息抜も必要だよ?」 「馬鹿言え」 調子がいいのか来期の挑戦者リーグに勝ち上がってきやがって、 さ来週はオレとあたるんじゃないか…! 何考えているんだコイツは…オレの調子でも崩す気か? 腹黒ながら案外にそういうセコい手は コイツの好みじゃなかったハズだが… いぶかしむ緒方の腹を見透かすように白川は言った。 「さ来週までは時間もまだあるしさ… 毎年仕事でそれどころじゃないんだし、 たまには世間並みにクリスマス休暇を楽しんだって バチも当らないだろ」 「だったら勝手にひとりで遊んでろ!」 「ひとりでお伽の国に行くのはツマラナイな…」 そんなデタラメな口説き文句に耳を傾けたのが 大間違いだった。 そして確かにこの時もその後もト○ロのトの字も コイツは口にしていなかった。 「お伽の国」と聞いて勝手に某王国を連想した 馬鹿さ加減が悔まれる。 後から考えればヤツが言おうとしたのは そんなお子様向けとは似ても似つかないコトに違いなかった…。 出発の朝、迎えに来た白川は緒方を寝床からひきずり出すと 服を着せ、顔をあたり、瞬く間に荷造りを済ませると 朝飯も食べずに電車に連れこんで… 緒方がようやくまともに周囲を認識しだした頃にはもう成田だった。 「どこへ行くんだ?」 モーニングセットをつつきながら緒方は尋ねた。 毎度ながら白川がフォークでサラダを口に運ぶ様は まるで同じ人間とは思えない。 なぜあぁも易々と生野菜が途中でこぼれもせず 口に収まるのだろう。 はからずも見とれてしまった事に気づいて 緒方は不機嫌そうにプチトマトを口に放り込む。 「バルセロナ」 「…どこだそれは?」 「スペイン」 「……闘牛とかのある…?」 「見たい?」 「別に…」 牛を食うのは嫌いではないが、 そのなぶり殺されるのなんか別に見たくはない。 いや、そんなことはモンダイではなく。 これからコイツと飛行機に乗るという信じたくない現実が大問題だ。 スキあらばこの場から逃走したい。 だが、この白川から逃げだすのはこれが なかなか容易なことではないのだが…。 早く逃げないと乗るしかなくなってしまう… どうやって撒こう? とてもコーヒーを味わうどころではない。 「不味い」 白川は黙ってまだ手をつけてなかった紅茶カップを 緒方のコーヒーと置き換えた。 「トイレ」 と立とうとした緒方の手をとって止める白川。 「待てよ、迷子になったら乗り遅れる…一緒に行くから」 諭すように穏やかに言うが その指の万力のような力はどこから出ているのか…。 誰か見ている者があれば、 どうして振り払わないのかといぶかしむことだろう。 だったら一度関節を極められてみろってんだ…。 逃れようとあがくほど身動きできなくなるという恐ろしい目に 一度でも遭ってみるがいい。 緒方は眉根を寄せてうめいた。