「君にとっての塔矢先生って何?」
それは、記憶の彼方に押しやられていた、白川から投げ掛けられた問い。
あれは塔矢先生の内弟子だった俺が、独立したばかりの頃だった。
塔矢行洋が俺にとってどんな存在だったのか?
敬愛する師であり追い求める目標であり、神の一手にもっとも近いもの。
……つい一昨年までの俺なら、躊躇わずにそう言えたはずだった。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
冬ざれた閑素な庭に、白いものが間断なく舞い落ちていた。
庭を映す淡い照明のなかで、十数センチにもなる積雪が浮かび上がる。
「緒方。風邪を引くよ」
いつ聞いても白川の声は耳朶に柔らかい。
気が付けば、先に部屋に戻っていた白川が、部屋に続く次の間から廊下に顔を覗かせていた。
「お前こそ。部屋に入っていろ。風邪を引く」
言いながら急ぎ足で部屋へ向かう。
思わず浮ぶ苦笑。
――― たぶん風邪を引くとすれば、白川の方だ。
俺とは違い、この宿自慢の風呂を鴉の行水で上がったのだから。
「酷い夢を見た」
座敷に運ばれてきた夕食を前に、杯で酒を飲みながら、緒方がポツンと言った。
先付けの野菜や胡麻豆腐、旨い料理に旨い地酒。
少し酔ったのだろうか。
「どんな?」
白川の口調に面白そうな響きが混ざる。
緒方は杯から視線も上げず
「お前に得体の知れない薬を盛られた夢だ」
「……なかなかリアルだね。で、何で盛られた?」
酒を口に運びながら、白川はちらりと緒方に視線を走らせる。
「……よく覚えていない。まぁ大方お前が嫉妬に狂ってだろうさ」
「君って、夢の中でもそんなことをしているんだ」
緒方は吐息のような笑いを洩らした。
「何だかやぶ蛇だな」
「いつ?」
「昨夜」
「嬉しかった?」
「嬉しい?お前……得体の知れない薬を盛られたら嬉しいのか?」
「そうだね。うふっ。もし盛ったのが君でそれも嫉妬からだったら嬉しいかな」
「そして薬が毒だったら死ぬわけだ」
「嫉妬で殺されるほど愛されているのなら、本望じゃないか」
低く忍び笑いながら緒方が杯から顔を上げた。
「悪趣味だとは知っていたが、甘い女の様なことを言うんだな」
ふいに片手を伸ばした緒方に、白川は浴衣の襟を掴まれ力任せに引き寄せられた。
とっさの緒方の行動に、簡単に緒方へ倒れかかった白川の首筋に柔らかい感触が走る。
思わず身をすくめた白川の身体に、すぐ慣れ親しんだ感覚が芽生えていくのを緒方は確認しながら
「もし死んだら、全ておしまいだ。こんな楽しいことも出来なくなる」
白川の耳元に掠めるような楽しげな緒方の囁き。
そのお返しに白川は緒方の耳に軽くかみ付くと
「その代わり、君は一生私を忘れない」
そう、この世のものには全ていつか別れるがくる。
それなら思い出と言う形であっても、君の中でずっと存在し続けられるのなら。
「……私だったら、楽しみなんか捨てられるかもしれないよ。
君を放さない為だったらね」
さぁ甘いのはどっちだろう。君?私?
緒方は喉の奥で笑うと白川を離した。杯に酒を注ぐ。
「まるで夢物語だな」
「だって初めから君の夢話だろ。それに」
白川も杯を上げる。
「その薬は毒じゃなかったはずだ。
もしそうなら君は始めから毒を盛られたって言うさ。薬を……じゃなくってね。
……にしてもそんな夢をみるなんて、何かやましい隠し事があるんじゃないか?」
緒方は一気に杯を煽ると、空の杯に視線を落とした。
また銚子を取り、空にした自分の杯と白川の杯に酒を注ぐ。
「……あぁ沢山あるな。そんなものが」
嘘だとすぐに分かった。沢山じゃないはずだ。
ましてやましい事などひとつもないだろう。
白川は溜息をひとつ。
「何があった?」
「何が、だ?」
「この前の桑原先生との手合いのことだろ」
緒方に皮肉げな笑みが浮かぶ。
「ただ……俺が負けただけだ」
「それで?」
言葉が途切れた。
静寂が部屋を満たしていく。
聞こえるのは、風雅な火鉢の上でしゅうしゅうと沸き立つ鉄瓶がたてる湯気の音。
古い柱時計の秒針の音。
「そんなに、最低な話を聞きたいのか?」
「ああ、聞きたいね。最低かどうかは、聞いてから私が判断するさ」
荒々しく緒方は立ち上がると、広縁の窓を開け放した。
一瞬で刺すような空気が部屋に流れ込む。
突然、鈍い音が響いた。窓枠に緒方が拳を叩き付けた音だ。
「笑わせてくれるッ。
〔俺が塔矢先生からタイトルを奪えなかったのは、
先生を越えるのを俺自身が恐れていたからだ〕
と言いやがったんだっ」
「……緒方。手っ」
拳に微かに滲み出す血を見て、慌てて立ち上がった白川を緒方の鋭い視線が制する。
「大丈夫だっ。このくらい」
「……」
「何も言うなっ。 分かっている。分かっているんだッ。
そんなのはあのジジィのただの《はったり》だってことぐらい。
俺たち打ち手に、師を越えたくない奴がいるか?」
緒方は皮肉げに頬を歪ませた。
その後の緒方は饒舌だった。
「囲碁は誰のために打つのでもない。俺が俺自身のために打つんだ。
なのにな。そんなことはとうに分かっているはずだったのに……俺は動揺してあの有り様だ」
確かにあの一戦は、白川が思い出す限りでも緒方らしくない荒れた碁だった。
緒方は振り返った。
「何故だと思う?」
それはたぶん君が、自分の奥底に抑制した塔矢先生への感情を
理解していないからだ。
強すぎる願望は、時に、毒にもなる。
ふっと緒方の身体から力が抜けた。
「何故だろうな。昔、お前に聞かれた事を今更になって思い出すんだ」
緒方は煙草を出すと火を付けた。
白川が無言で灰皿を渡す。
身を刺すような寒さに、白川は身震いすると開け放たれた窓の外に目を移した。
雪は依然やむ気配も無く、厚く垂れ込めた雪雲が手を伸ばせば届くようだ。
そっと白川は窓を閉め、緒方の首に手を回して優しく口付けると、耳元で囁いた。
「遅くなったけれどお誕生日おめでとう。今年は、その謎が解ける事を祈っているよ」
抱き合えばすぐに身体は温まった。
だが反対に軋み始めるものもある……。
本心を押し隠したのは、私も同じだ。
君が本心に気付くことなど私は望んでいない。
だが抑えた心は痛みを生み ――― 。
閉じ込められた欲望は、そのうち殻を破り溢れ出すだろう。
そして ――― いずれ形となって現れる。
二十三夜の月に掛けた私たちの願いは ――― どちらが実現するのだろう?
冬の夜が色濃く忍び寄ったような気がした。
了
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